またまた、城田さんが過去にスポーツ報知で連載していた「フィギュアの世界」からです。
グーグル等で検索しているのですが、くまなく連続して掲載していたブログさんが見当たらないようで。。。(ノ_<)
サイトのリンクが消えているので、今後のためにも、保存しておいた方がいいかなと思っています。
検索サイトで残っているのからランダムにひっぱってきていますので、とびとびになると思いますが、大変貴重なお話の数々だと思いますので、とびとびでもいいので、「フィギュアの世界」をカテゴリーで独立して、ア-カイブとして保存しておきたいと思います。
本当は、対談を本にしてほしいほどなんですが、もう4~5年経過しているから、ないんだろうな汗。
というわけで、城田先生と、都築先生の対談です!
なぜこれを選んだかというと、東日本大震災後の対談で、羽生君の話題が出てくるのです。
前後も見つけられれば、保存したいと思います。
○日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(3)(2011年6月30日13時05分 スポーツ報知)
日本人で最初の世界選手権メダリスト、佐野稔。ジャンプ能力などに秀でた彼ではあったが、日本国内での練習だけでは、やはり世界のトップスケーターと渡り合うには限界があった。まな弟子をさらに強くするために必要なものは何か―。都築章一郎コーチは、フィギュアスケートの伝統国であるロシアに目を向けることになる。はるか遠い大陸に渡った若き師弟が、驚がくしつつも学んだものとは何だったのだろう。
◆都築氏・城田対談
城田「佐野君を連れて、ロシアへ―。まず彼と一緒に練習に出かけたんですか?」
都築「いや、実はいきなり、ロシアの試合に出させたんです。日本で試行錯誤を重ねて、7、8年目くらい、佐野が14、15歳くらいのころかな? まだまだスケーターとして完成されていない佐野と、当時ペアをしていた長久保も一緒です。今のロシア杯の前身にあたる大会に、みんなで出場して…。それでまあ、ショックを受けたわけですよ。試合の結果など、言わずもがな(笑)。それ以上に僕たちは、ロシアのスケートを初めて見て、さらにエキシビジョンから何からすべて初めて見て…。もう、本当にショックでね(笑)。僕も選手たちも、みんなどうしたらいいのか、わからないような思いだった」
城田「ロシアから都築軍団が帰って来た時にね、『すごいんだ、やっぱりアメリカじゃないんだよ。ロシアに目を向けなきゃいけない!』。そんな話を先生から聞いたのを覚えていますよ(笑)」
都築「そんな話もしましたか(笑)」
城田「それは驚きますよね。当時からロシアのスケートのコリオグラフィーはすごかった。音楽とスケートの調和の素晴らしさ、バレエの要素が氷上に反映される、その美しさ…」
都築「氷上の動きと、バレエの動き。これが一体となって常にそこにある、そんなスケートなんです。選手たちは毎日、氷の上に乗る前に必ずバレエのレッスンを受ける。そのバレエの素養を基礎からきちんと身に付けた選手たちの演技を見て、フィギュアスケートもスポーツってだけじゃない、やっぱり芸術なんだなってことを僕はそのとき知ったんです。そうか、スケートって、僕たちの考えていたものとは違う。こういう選手を、日本も作らなくちゃいけないんだ、と」
城田「一気にやらなければならないことが広がりますよね。音楽、振り付け。そこに気を使うために、美しいポーズを取らせるために…。選手たちの体も基礎から作らなくちゃいけない」
都築「さらに芸術面だけでなく、ロシアの選手のジャンプの軸の取り方のうまさなどにも、圧倒されましたしね。ジャンプに関してはある程度頑張って来たつもりだったけれど…。僕のそれまでの独りよがりの指導が、すべて吹っ飛ぶような思いでした。さらにはコーチも専門的なジャンルに分かれていて、振り付けの先生、バレエの先生、ジャンプの先生…。すべての専門家がそろっていた。当時の日本じゃ、そんな指導方法など考えられなかったですよ。もう、スケートを教える、その仕組みからして全然違っていたんです」
城田「そこで驚いているところに、デュークとルイシキンに出会うわけですか?」
都築「そう。ロシアのペアの名コーチ、スタニスラフ・アレクセイ・デュークと、振り付けや音楽の専門家、ヴィクトル・ルイシキン」
城田「すごい先生たちですよねえ」
都築「2人を紹介してくれたのは、当時のロシアスケート連盟会長のブァレンチン・ピセフ氏です。ロシアのスタイルを学びたいという私たちにとてもよくしてくれて、日本にロシアのスケートを伝えることに、とても力を入れてくれた。彼のおかげで、当時の五輪王者を育てたすごいコーチたちを紹介してもらって、佐野をはじめ日本の選手たちが指導を受けることになったわけです」
城田「まあ、めったに教えてもらえるコーチではない」
都築「そのころはまだ、(タチアナ)タラソワとか、タマラ(モスクビナ)はまだまだ若手で(笑)」
城田「(アレクセイ)ミーシンも、若手と言う時代でしたか? 今の一流の名コーチたちの、さらに上の先生たちに習うことになったわけですね」
都築「はい。まあ、とにかく、初めて行ったロシアで違う世界を見てしまったものですから、何とかしてこれを吸収しよう、しなくちゃいけない、と。せっかくロシアと交流できるというすごいチャンスを得たんですから、それをどう日本に導入していくか、選手たちの練習に反映させていくか。ずいぶん考えましたよ」
城田「先生たちがそのロシアのコーチたちを日本に呼んで、夏休みの選手たちと合宿をしていたこと、覚えてますよ」
都築「そのころになると佐野も力をつけてきていますし、日本スケート連盟もかなりバックアップしてくれるようになりましたね。日大の友人たちは相変わらず力になって、『デュークを呼ぼう、ルイシキンを呼ぼう!』と盛り上げてくれた。さらにはダイエーの中内功さんも協力してくれるようになった」
城田「東武百貨店のリンクでお仕事をしていて、それから品川のリンク(西武)に移り、選手を指導していた都築先生をダイエーグループが誘い、新松戸の新しいリンクに招いた。『リンクは君に任せるから、いい選手を作って下さい』と」
都築「彼らを日本に呼ぶための金銭的な援助も得られて…。そんな道もありがたいことに開けてきたんです。初めてロシアに行った年から毎年毎年、春、夏、冬とデュークやルイシキン、さらにボリショイバレエの一流の指導者などを日本に呼ぶことになりました。そんな交流が、それから10年は続いたでしょうか。デュークなど、長い時は半年くらい日本に滞在してくれましたし」
城田「確か五輪後に、ロシアの選手たちが日本に立ち寄ってエキシビションをしたりもしましたよねえ~」
都築「リレハンメル五輪の後ですね。佐野の時代から始まって、彼だけでなく、当時の新松戸のダイエーのリンクの子どもたちは、ずいぶんロシアの指導者や選手たちの影響を受けたと思います。五十嵐文男、松村充、無良隆志、重松直樹、天野真…」
城田「ダイエーのリンクから育ったペア、小山朋昭君と井上怜奈ちゃん、それからロシア人のアレクセイ・ティホノフと組んだペアの川崎由紀子ちゃん。彼女たちも大きな影響を受けていますよね」
都築「新松戸で育った川口悠子が、のちのちロシアを選んだことも、そんな根っこがあると思うんです。彼女もダイエーのリンクでたくさんのロシア選手たちや、練習の仕方も見ていて憧れていた。それでロシアのタマラに手紙を書いて。という経緯があるんですよ」
城田「実はこのロシアとの交流は、他にも様々な部分で影響をもたらしているんですが…。本題の佐野君に戻ると、彼はそうしてロシアのスケートを吸収しながら、毎年ロシア杯に出場を続けていたんですね」
都築「そう、でもやっぱりなかなか点数を上げてもらえなくてねえ(笑)」
城田「ところがそんな努力を続けていくうちに、ある年に表彰台に上がってしまった!」
都築「(中学生だった)佐野が初出場から7年後、ついに本場ロシアの試合で、3番になってしまったんですよ!」
城田「あのときはロシアの観客も、関係者もうびっくりしていて(笑)。やっぱり佐野君はすごいなとの思いと同時に、都築先生の肝いりの佐野君がやはり熟しつつあると思いましたよ」
都築「そうですね。国のお歴々が見に来るような大きな試合でね。選手たちと僕とでロシアへ行って驚いて、何とかこのスケートを吸収しようと、その衝撃を大きなエネルギーに変えて頑張って…。そしてやっと、憧れていたロシアの地で表彰台に立つまでになったんです」(続く)
日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(5) (2011年7月12日23時23分 スポーツ報知)
佐野稔を世界選手権メダリストに育て上げた後も、都築氏の様々な試みは続く。選手育成はもちろん、コーチの社会的立場向上にも力を入れ、インストラクター協会設立などに尽力。さらに彼の育てた選手たちは全国でコーチとして活躍をはじめ、がむしゃらに作った日本のフィギュアスケートの流れの一つは、脈々と息づいていく。
◆都築氏・城田対談
城田「インストラクターたちのリーダーのひとりとして『プロ協会』の発足にも関わってらっしゃるんですよね。日本プロスケート協会―今の日本フィギュアスケーティングインストラクター協会ですね」
都築「話し始めると、いろいろ出てきますね(笑)。なんだかもう、この50年間、色々な事がありすぎて」
城田「私たちの先生の世代に当たる、片山先生(片山敏一氏、1936年ガルミッシュパルテンキルヘン五輪出場)、稲田先生(稲田悦子氏)といっしょに。彼らとともにプロ協会の最初の理事の一人となったのが、都築先生。先生はご自身が苦労してきた分、スケートのコーチも組織として何かしっかりした基盤を作り上げていこう、と考えられた」
都築「初めに当時のコーチたちの間で、親睦の集まりみたいなものがあったんですよ。そこで世の中からスケートのコーチがきちんと評価を受けられるようなシステム作りをしたい、という考えを話し合うようになりました。そのためにまず、資格制度を取り入れることになったんです。僕らが作った『フィギュアスケートインストラクター』という資格、これをきちんと取得していれば、まずはスケートのコーチとして信頼される、習う人にも信頼感を持ってもらえる、そんなところを目指しました。そして資格を得た人は、我々のインストラクター協会に所属します。将来的にはきちんと世の中から評価を受ける組織になって、このなかで日本のコーチも育っていく、レベルも向上していく、という形にしたいと」
城田「今は日本のほとんどのスケートの先生が、インストラクター協会の会員ですね」
都築「現在は全国で200人近くが資格を取っています。当初目指したような発展もしてきましたし、いい取り組みができてきたな、と思ってますよ。もし今、インストラクター協会がなかったら…」
城田「大変ですよ! スケートのコーチという職業、いつまでも身分が保障されないままになっていましたから。保険にしても年金にしても、何の保証もない。一人で選手を教えるだけで、年をとったら終わり、ってことになってしまっていた。しかし、インストラクター協会に所属していれば、そうした部分も組織的に面倒を見てもらえる」
都築「その点も、大きいと思います。やっぱりみんなスケートの好きな人たちの集まりですから、そんな取り組みも協力し合えた。おかげさまで今、日本でも若いスケーターでコーチになろうという人もずいぶん多くなりましたし、これからはもっともっと増えていくと思います」
城田「都築先生にしろ、大橋さんにしろ、土ケ端さんにしろ、当時の先輩たちが自分だけのためでなく、スケート界全体のために様々に考えながら活動してらっしゃったこと。当時の私はまだまだ若くて、みんながお酒を飲みながらそんな話をしているのをただ聞いていただけの時代ですが、少しずつ私の中で肥やしになっていったかな。強化の仕事を始めた頃はまっさらで何も知らなかった私も、先輩たちや都築先生達に鍛えられて、いろいろな経験をしました。土ケ端さんに言わせれば、『叩き台があったから、叩いたんだよ。叩き台がなかったら、どうぞお嬢さん、そこで座ってて下さい、で終わってたよ』なんて言われましたが(笑)」
城田「それから都築先生といえば、ペアやアイスダンスの選手をたくさん育てた点でも、日本のコーチとしては珍しい存在です。お嬢さんの奈加子さんもダンスで日本を代表する選手になり、ペアも岡部由紀子&無良隆志組、井上怜奈&小山組朋昭組、川口悠子&アレクサンドル・マルクンツォフ組と育てていますけれど、このきっかけは?」
都築「ペアはですね、実はシングルの選手をより強くするために練習させたんですよ。初めの長久保(長沢琴枝&長久保裕組・札幌五輪出場)たちも、井上(ペアでアルベールビル五輪出場後、シングルでリレハンメル五輪出場)たちもそうです。これも最初は、『何が正しいかわからないから、とにかく何でもやらせてみよう』から始まったんですが(笑)。ペアを滑ることによって、シングルの選手としての軸もしっかり作れる。男子なんて、自分がしっかりしていなければ、女子を投げたり持ち上げたりできませんから」
城田「シングルのための、ペアだった?」
都築「実はそうです。たとえば無良などは、ペアとシングル両方で世界選手権に出て(1980年)、シングルで11番、ペアで12番だったんですよ。両方練習しながらも、初めての年でこの成績です。ペアなんてまだ2年もやってない状態で、世界選手権にも出られちゃった」
城田「無良君が、とてもしっかりしていましたよね。もっともっと評価されていい選手だった」
都築「井上も日本でペアをやっていたのは、たった3年ほどです。非常に短期間で五輪に出られて、シングルの選手としてもいい影響があった。でも残念ながら日本では、ペアの選手への評価があまりにも低かったですね」
城田「それは私も、かわいそうだったな、と思ってるんですよ。特に無良君なんて、もっと連盟としても力を入れてあげるべきだった」
都築「今もそうですが、当時はもっと認めてもらえなかったですから。本来でしたらシングルと同じように評価されて、力を入れてもらっていいのに、と私は思っていたんですが、なかなかそこまでは出来なかった」
城田「日本は昔から、カップル競技には冷たいから」
都築「今は新しいルールで、ジャンプだけでなく総合的なものを評価する時代になったので、ペアなどはますます近寄りがたい種目になってしまいました。あの頃から育成を続けていれば、もっと日本のペアの基礎は出来ていたはずなんですが…。また、アイスダンスもしかりです。うちの娘にやらせていたんですが、あれはもう、辛かった(笑)。日本では相手がいないということで、崩壊前のソ連に娘を連れていって、(ナタリア)リニチュクにいいパートナーを紹介してもらって、それでも何度かパートナーを変えたりもして。ペアやダンスでもロシアに助けられていますね」
都築「私も奈加子ちゃんが世界選手権などに出るとき、何度かチームとして同行しましたよ。正直にいえば、シングルを追いかけるだけで大変だったんです。派遣される連盟のスタッフの人数も今より少なかったので、『奈加子ちゃん、どう? 頑張ってる?』なんて声をかけるだけでせいいっぱい。『今回は公式練習、この時間しかダンスは見てあげられないの』」なんて、ダンスやペアの選手たちには本当に時間をかけられなかった。今も新松戸で育った高橋成美ちゃんなどが頑張ってはいますけれど、大変ですよね」
城田「一方でシングルの方は、長久保君、無良君、重松君(重松直樹コーチ)と、先生の育てた選手たちがコーチとして全国で活躍しています。彼らみんな、新松戸のダイエーから育っていった選手たち! 考えてみたらすごいことです。特に、仙台でコーチをしていた長久保君」
都築「はい、新松戸の後に仙台にもダイエーのリンクができるというので、まず長久保を派遣したんですよ。そこで彼は本田武史に出会って、荒川静香に出会って、彼らが仙台から育っていった。あの当時も、ロシアのコーチに仙台に行ってもらったりして、いい形で交流も続いていきました」
城田「ダイエーのリンク、新松戸に続いて仙台でもいい選手を輩出し続けていきますね」
都築「やはりダイエーの中内功さんのバックアップは大きかった。ありがたいことです」
城田「2つのリンクの選手たちがあまりに優秀なので、フィギュアスケート界はしばらく、ダイエー天下が続いたくらい(笑)」
都築「仙台では、ロシアからさらに世界に目を向けて米国の振付師、ロバート・ダウを呼んで指導を受けたりもしていました。若い頃の本田のプログラムがロバートの振振り付けですね。長久保はじめ仙台のコーチたちも非常に頑張って、どんどん世界の空気を日本に入れていこう、と。そんなふうに次の世代につながっていったことは、私の一つの宝だな、と思っています。世界のたくさんのコーチに出会って、教えてもらって、その流れを自分の選手たちも受け継いでくれて、みんながコーチとして活躍して…。さらに新しい世代の子どもたちも、いい流れの中で頑張ることができています」
城田「みんな先生の、反骨精神からスタートしたこと。おっとりしたお坊ちゃん、お嬢さんが多いフィギュアスケート界では、なかなか先生のようにがむしゃらにやる方はいなかったな、と今は思うんですよ。そしてその流れの中で育ってきて今、先生が臨時コーチ的に教えているのが、羽生結弦選手」
都築「そう。彼がノービスのころまでは僕も仙台にいましたので、少し練習を見ていたんです。それが今回、未曾有の出来事(東日本大震災で仙台のリンクが被災し、現在閉鎖中)があって、今、僕が教えている東神奈川のリンク(神奈川スケート)に来ることになりまして」
城田「彼は本当に、リンクがなくなったからといって、絶対にあのまま終わらせてしまってはいけない選手。私も今まで選手たちを見てきて、いいな! と思ったのに伸び切らなかったもったいないスケーターがたくさんいましたが。でも彼は、そんなことになったら絶対にいけない。もう動きからして半端ではない、極上の選手ですよ」
都築「はい、私もたくさん選手を見てきましたが、羽生くらいすべてが整っている選手はいない、と思っています。それほどの選手です」
城田「ですから、きちんと環境を整えてあげて、スポンサーも探してあげなくては。氷の上できちんと戦っていけるように、指導者にしても振り付けにしても、どんどんいいものに接するチャンスを与えてあげなくちゃいけないと思うのです」
都築「本当に、またかつてと同じように、日本の皆さんみんなの力をお借りして、なんとかみんなで羽生を育ててもらいたいな、と思っています。今、かつて佐野に言ったことと同じことを、羽生に言ってるんですよ。『おまえは世界に羽ばたくんだよ!』と(笑)。今になってまたそんな言葉がかけられる選手が出てきてくれて、私は幸せなコーチだな、なんて思いながら、彼の練習を見ているところです」
城田「今回はロングインタビューありがとうございました。都築先生のますますのご活躍を期待しております」(この項終わり。次回は長久保裕氏)
都築先生の対談も大変面白い!
日本はアメリカやカナダだけではなく、ロシアのフィギュアスケート界と密接な関係があったことがうかがえます。
そして、東日本大震災で被災した羽生君を臨時で教えていた都築先生の言葉もうれしいな。
「本当に、またかつてと同じように、日本の皆さんみんなの力をお借りして、なんとかみんなで羽生を育ててもらいたいな、と思っています。今、かつて佐野に言ったことと同じことを、羽生に言ってるんですよ。『おまえは世界に羽ばたくんだよ!』と(笑)。」
ラグビーには、「all for one one for all」という言葉がありますが、かつてのハングリー精神に溢れた、欧米の天下だったフィギュアスケート界に風穴をあけようとする日本スケート界には、そういう機運があったんですよね。
恵まれすぎると、小さいことに気をとられてしまうのかもしれない。
また、城田さんと都築先生の羽生君評は、長い間多くの選手を見てきたからこその言葉ですな。
ド・素人のワシでも、初めて見たとき、「希代の天才だ!」って小躍りしたもんです。。。ニワカですけどww
そして、これは私の想像ですが、この対談で都築先生にお話することで、城田さんは羽生君に対して、実際に何か手助けしないと、と真剣に思い、行動に移していったのかな。。。と感じました。
人にお話することで、考えが整理できること、より強く決意することってありますよね。
こんな風に、次々にアーカイブとして保存していきたいと思います。
羽生君の新プロ発表はいつになりかわかりませんが、パパシゼは10月のフランスでの大会で発表と言っていますし、ロシア女子なんか新プロ情報がほとんど皆無ww(シニアトップで公表している選手がいましたかな?)、遅めなのが本来のスタイルなのかも。
テサモエも、WFSの最新号で、プログラムにより深みを出すために、新プロについてはまだ発表しない、と言っていましたし、雑音から離れてプロに深みを目指すことが本来はいいのかもしれません。
コメントお返事は週末にします~汗。
週末は甥っ子たちがくるの~どうなることかッ!
ではでは。
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コメント
ちいこさん、ありがとうござる!この企画すごくいいですね。本当にありがたい。
…っていうかさ、日本の出版社も羽生本とかもういいから、こういうの本にまとめてほしいよね。
ちょっとマニア向けかもしれないけど、こういう日本フィギュアの黎明期から黄金期を作ったコーチ達の言葉って貴重だと思う。今、フィギュアブームきてるからこそ、採算取れると思うけどなぁ。
佐野稔さんが居酒屋オヤジの欠片もなく、紅顔の美青年だった頃、東京ワールドで3位取った時テレビで観てましたぁ(爆)
…[打消]子供の頃[/打消]、ぜ、前世の記憶なんで曖昧ですけど、フリーが良くて銅取れるかどうか、皆固唾を飲んで観ていたと思います。大きく報道もされてたなぁ。あの時代、日本人がメダルを取るのって考えられないくらいの快挙でしたもんね。
後年、都築コーチと佐野さんが星飛雄馬もびっくりの特訓をしていたことを知って、喋りはチャラいけどやってることは硬派じゃん!と見直したしだいでござる。稔めんご!
都築コーチ熱かったんですな。世界に目を向けている。世界から色んなことを吸収しようとしている。選手がいくら才能があっても、それを支えるコーチやスタッフが優秀じゃないとトップで戦えませんよね。
「アメリカじゃないよロシアだよ」←これわかります。わかります。
ひと昔前のソ連の圧勝時代は終わったかもしれませんが、今でもフィギュア競技の根幹を支えているのはおそロシアだと思います。
日本人選手も多くのロシア人コーチに指導されてトップ選手になれたし、北米のアイスダンスの黄金期を作ったのもソ連崩壊後、北米に流れていったロシアコーチですよね。
ロシアって国家は信用できないけどw、ロシア人って懐の深い人が多いのかもな。と思います。
もし、ゆづがカナダコーチじゃなく、ロシア人コーチについていたらどうなっていたか。
…栗家に移った頃よく考えたアルヨ。。。 カナダかぁ…orzと。。。
オーサーコーチにつくことは、いい選択だと思いましたが、ロシアに移ってロシア風味の振付で滑ったら素敵だったのにぃーとよく夢想したものですよ。
数年間栗家でやって技術を盗んでから、その後ロシアで学ぶ…とか妄想したりね。。。今となってはムリゲーだけどな(いやワカランヨ。まだだ、まだワカランヨ…はぁはぁ)
[太字]バレエはどうなったんじゃーーーヽ(`Д´)ノ(←またこの話題を思い出させるような文面発見!w)[/太字]
都築コーチもこんな前から言ってるじゃんよぅ。ゆづの「バレエをやる!」は、やるやる詐欺で終わってしまうんでしょうかね?パパシゼみたいに表現だけを見てくれるコーチとかつけてホスィ!
あと「日本は昔から、カップル競技には冷たい」←これもワカルぅー
日本は歴史的にみて男女で踊る文化がなかったからかもしれませんね。西洋からダンスが入ってきたのも明治以後で、それも一部の上流階級の人間がやるくらいでしょ?
男性が踊る。舞うっていう文化は、日本は昔からあるから、それほど男子フィギュアは敷居が高くなくできるのかもしれませんね。
カップル競技も子供の時から組まないとトップまでいけないからなぁ。都築コーチのシングルもペアも両方やらせるっていうのいい方法だと思うなぁ。海外の選手でもいますもんね。
…とまた長くなってしまいますた。めんご!
ちいこさま
この企画 すごいです!
過去の報知新聞を掘り返してきたい!
しかし 城田さんもいろいろ言われていますが(過去の金がらみ) フィギュアスケートに対する情熱は本物だと思いますけどね。
まだ 本当に小さく何もなかったスケート連盟から一つ一つ積み上げてここまで来たのだなと感じさせてくれる対談ですね。今はずいぶん大きくなってきましたが。
ぜひぜひ アーカイブに全部収めてください。
楽しみに待ってます。
しかし、いろいろなところで いろいろな方が子供たちの指導をしてくださっていたのですね。 その結果が羽生選手だと思うと 感謝ですね。
もちろん 羽生選手だけではないですが。
ところで 私もロシア派です。 ABTよりボリショイです。
昔からですが ボリショイバレエ大好きでした。 レベルが違います。
テクニックだけなら ABTもすごいのですが なんというのか 伝統?というのか そこにあるだけで 感じさせるものがある という圧倒的な存在感みたいなものを感じさせる踊りなんですよね。
うまく言えませんが とにかくすごい!
ちこさんもお忙しいと思います。 無理せずぼちぼちでやってください。
長く続けるには ぼちぼちが一番です。
> ちいこさん、ありがとうござる!この企画すごくいいですね。本当にありがたい。
> …っていうかさ、日本の出版社も羽生本とかもういいから、こういうの本にまとめてほしいよね。
> ちょっとマニア向けかもしれないけど、こういう日本フィギュアの黎明期から黄金期を作ったコーチ達の言葉って貴重だと思う。今、フィギュアブームきてるからこそ、採算取れると思うけどなぁ。
写真はいつでも見られるが(ニュースコムとかゲッティのホームページで)、こういう「当時の証言」みたいなのって、掲載している元記事とブログが消えたら終わりだからのう。
歴史的にも貴重だし、一見興味がなさそうなお話にも、羽生君や真央ちゃんや、今にもつながるお話があるのに。
マニアックだけど、今ならなんとか採算とれそうだから、まとめてほしい~。
>
> 佐野稔さんが居酒屋オヤジの欠片もなく、紅顔の美青年だった頃、東京ワールドで3位取った時テレビで観てましたぁ(爆)
なんとなんと!
> …[打消]子供の頃[/打消]、ぜ、前世の記憶なんで曖昧ですけど、フリーが良くて銅取れるかどうか、皆固唾を飲んで観ていたと思います。大きく報道もされてたなぁ。あの時代、日本人がメダルを取るのって考えられないくらいの快挙でしたもんね。
> 後年、都築コーチと佐野さんが星飛雄馬もびっくりの特訓をしていたことを知って、喋りはチャラいけどやってることは硬派じゃん!と見直したしだいでござる。稔めんご!
都築コーチの練習はききしに勝る厳しさだったそうですな。。。しかも教え子ともども試行錯誤しながら。
旧採点時代って、強豪国以外は勝つのはムツカしかったよね。
色々問題はあるかもしれないけど、新採点になって良かったお。
>
> 都築コーチ熱かったんですな。世界に目を向けている。世界から色んなことを吸収しようとしている。選手がいくら才能があっても、それを支えるコーチやスタッフが優秀じゃないとトップで戦えませんよね。
コーチとスタッフ大事だよね。
そういう意味では、佐野先生も羽生君もチャンスをつかんでいると言えますな。
都築コーチのような世界に出て行った熱い人が、今の日本のフィギュアスケートをつくってきたんだなあ。
>
> 「アメリカじゃないよロシアだよ」←これわかります。わかります。
> ひと昔前のソ連の圧勝時代は終わったかもしれませんが、今でもフィギュア競技の根幹を支えているのはおそロシアだと思います。
> 日本人選手も多くのロシア人コーチに指導されてトップ選手になれたし、北米のアイスダンスの黄金期を作ったのもソ連崩壊後、北米に流れていったロシアコーチですよね。
> ロシアって国家は信用できないけどw、ロシア人って懐の深い人が多いのかもな。と思います。
ロシアのノウハウを惜しみなく教えてくれたって、なかなかできることじゃないとオモ。
まず、たぶんアメリカだったら、そこまでせんだろうww
情が厚いし、フィギュアスケートを理解してくれる国があることが嬉しかったのかもしれない。
ロシア流を広めると言っても、そこまで長きにわたって交流するのって、なかなかできることではないよね。
今は北米に流れがいっているけど、ロシアのフィギュアスケート、好きじゃー!
>
> もし、ゆづがカナダコーチじゃなく、ロシア人コーチについていたらどうなっていたか。
> …栗家に移った頃よく考えたアルヨ。。。 カナダかぁ…orzと。。。
ああ、うん、滑りはうまいけど、基本的にカクカクな印象アルね。。。。
> オーサーコーチにつくことは、いい選択だと思いましたが、ロシアに移ってロシア風味の振付で滑ったら素敵だったのにぃーとよく夢想したものですよ。
> 数年間栗家でやって技術を盗んでから、その後ロシアで学ぶ…とか妄想したりね。。。今となってはムリゲーだけどな(いやワカランヨ。まだだ、まだワカランヨ…はぁはぁ)
本当はそれが一番好き(自分がですが)なのですが、ないだろうなー。
ロシアの選手は最近は北米の振付師に依頼する選手が多いのだから、北米の選手がロシアの振付師に頼んでもいいのになー。
ロシアの選手が北米の振付師に依頼するようになったのを見て、都築コーチではないけど、これはまた強くなりそう、と思いましたな。
サッカーもですけど、低迷を経て貪欲に学びを吸収しはじめた国は、数年かけて実を結びますからのう。
>
> [太字]バレエはどうなったんじゃーーーヽ(`Д´)ノ(←またこの話題を思い出させるような文面発見!w)[/太字]
> 都築コーチもこんな前から言ってるじゃんよぅ。ゆづの「バレエをやる!」は、やるやる詐欺で終わってしまうんでしょうかね?パパシゼみたいに表現だけを見てくれるコーチとかつけてホスィ!
パパシゼの表現専門のコーチ、
チョットクリケットに派遣してくれないアルか?とオモタYO!
バレエはよっぽど合わなかったのか。。。北米って、バレエレッスンを重要視してない印象~。
>
> あと「日本は昔から、カップル競技には冷たい」←これもワカルぅー
> 日本は歴史的にみて男女で踊る文化がなかったからかもしれませんね。西洋からダンスが入ってきたのも明治以後で、それも一部の上流階級の人間がやるくらいでしょ?
基本的に伝統外という感じがする汗。
> 男性が踊る。舞うっていう文化は、日本は昔からあるから、それほど男子フィギュアは敷居が高くなくできるのかもしれませんね。
そうか!能も歌舞伎もそうですもんね。
日本男子の衣装の綺羅びかさにも、私は能や歌舞伎の影響を感じるんですよね~ロシアはバレエ衣装ですな。
> カップル競技も子供の時から組まないとトップまでいけないからなぁ。都築コーチのシングルもペアも両方やらせるっていうのいい方法だと思うなぁ。海外の選手でもいますもんね。
ためしにやってほしいけど、リンクが少なくなっている現状ではますます難しいのかな。
>
> …とまた長くなってしまいますた。めんご!
モーマンタイ!
はじめまして!
ブログ村さんからいらっしゃったのですか~数多いブログの中から見ていただきまして、ありがとうございます!
こーゆーのを読みたかったとおっしゃっていただいて、とても嬉しいです!
時々、あまりにもマニアックすぎ?
とか、サッカーの話題出し過ぎ?
萌え要素なさすぎww
と思っていましたので~。
ご紹介いただいたブログさんは、見つけました~。
今は更新していらっしゃらないように見受けられるのが気がかりで。。。もし閉じられたら、貴重なインタ記事もほぼ消えてしまうので汗。保存先は複数あった方がいいと思いましたので、頑張って保存しようかなと思っています。
ヤマト先生。。。なんとそんな訓練をww
昔は試行錯誤しながら練習していたんですよね。。。このようなお話を読むと、昔があって今がある、と思い出させてくれます。
更新は、ぼちぼちしてきます~。
来週から、ジュニアがいよいよはじまりますしね!
ありがとうございます~。
今さらなのですが、都築先生のレッスンのお話と、神宮のお話、ありがとうございまーす!
都築先生はやはし、体育会系でしたか。。。うう、靑木祐奈ちゃんが大成しますように。
神宮の伏。。。のお話も面白かったですww
やはり、そのスポーツが大好き、というのがまず第一にあるんだなあ、と思いましたよ。
羽生君のお母さんのことも思い出しました~。
コメントありがとうございます!
> ちいこさま
>
> この企画 すごいです!
> 過去の報知新聞を掘り返してきたい!
本当は本か何かで出してほしい~それか、スポーツ報知が出版するフィギュア雑誌の巻末にまとめてもらうのでもいいわ~。
>
> しかし 城田さんもいろいろ言われていますが(過去の金がらみ) フィギュアスケートに対する情熱は本物だと思いますけどね。
情熱が強すぎて空回りしちゃった時期があったんだろうなあ。
>
> まだ 本当に小さく何もなかったスケート連盟から一つ一つ積み上げてここまで来たのだなと感じさせてくれる対談ですね。今はずいぶん大きくなってきましたが。
>
> ぜひぜひ アーカイブに全部収めてください。
> 楽しみに待ってます。
ありがとうございます~。
掲載しているところが閉鎖してしまったら、もう残らなくなってしまうので、保存先は複数あった方がいいかなと思いました。
見つけられるだけ見つけます~。
>
> しかし、いろいろなところで いろいろな方が子供たちの指導をしてくださっていたのですね。 その結果が羽生選手だと思うと 感謝ですね。
> もちろん 羽生選手だけではないですが。
日本だけでなく、外国の先生方・選手まで全部つながっているんだなと感動しました。
これぞ、ハイブリッドですよね。
>
> ところで 私もロシア派です。 ABTよりボリショイです。
> 昔からですが ボリショイバレエ大好きでした。 レベルが違います。
> テクニックだけなら ABTもすごいのですが なんというのか 伝統?というのか そこにあるだけで 感じさせるものがある という圧倒的な存在感みたいなものを感じさせる踊りなんですよね。
> うまく言えませんが とにかくすごい!
私もロシア派です!
フィギュアスケートもロシア派。
ロシアがもっとスケーティングを強化してきたら鬼に金棒だと思うんですが、そうではないのは何故なんでしょー、もったいない!
ロシアの演技には、得も言われぬ空気感、魅力があるんですよね~。
それがなんなのかはわかりませんがww
>
> ちこさんもお忙しいと思います。 無理せずぼちぼちでやってください。
> 長く続けるには ぼちぼちが一番です。
ありがとうございます~。
ぼちぼちやっていきます!